「聴く映画」というとありきたりな感じがする。まるで映画が聴くものではないと言ってしまっているかのような。「観る音楽」はどうだろう。じゃあ音楽が観るものではないというのもそれは違う気がする。「聴こえない映画」もしくは「観えない音楽」というのもしっくりこない。
そもそも映画は無声映画の時代から常に聴くものであった。椅子が軋む音。映写機のモーターが上映中ずっと回る音。雨風が仮設施設に当たる音。観客が反応したり、お互いに喋る声。聴こえない映画とはなんだろう。それは多分観えない音楽と一緒だろう。
「映画が音と絵の芸術だ」と言ったのは誰が最初だろうか。絵画をリアリズムにおいて圧倒した写真の連続から発生した活動写真の初期にはそもそもフィルムに音が付属するなんて予想もしなかったはずだ。音がついているのが当たり前という映像のかたちも19世紀の終わりにはまだ存在していなかった。映画とは各フレームが連鎖する間隔を網膜で受け取っているだけにすぎない。音と絵を切り離して観る(聴く)ことで見えて(聴こえて)くるものがあるかもしれない。今回のコンピレーションの企画はそんな単純な思いつきから始まった。映画から音を切り離して一人歩きさせる。そう、赤ちゃんが自然と歩きだすように。
10作品のうち初めから音のみとして作られたものは3作品。残りの7作品は音と絵が共存(反発?)することで成り立っているものである。現在ブエノスアイレスの2月3日大学でサウンドアートの修士を取得中のハビエール・プラノは彼の大学院での研究の一部で制作したシンセサイザーを使った作品を提供してくれた。同じくアルゼンチン出身の映画作家パブロ・マゾーロの作品は彼の映画「オアハカ東北」からのサウンドトラックを編集したものである。コロンビアのジョン・メロは普段はプラネタリウムで360度で上映される映像を作るが今回の作品はボゴタの山脈を撮った映像のために作った音である。全員にとってこれらの作品は独立して存在するのか、映像に付随するのか。そこには映像ありきの「聴く」映画という共通の意識が存在すると考える。
今回のアーティストの選択にあたり、映画祭のネットワークが役立った。アルゼンチンのブエノスアイレスで2012年から2年ごとにBienal de Imagen en Movimientoというその名の通りMoving Imageのビエンナーレが行われており、私は2018年と2022年に2回訪れたのだがそこで観たハビエール・プラノのとてつもなくストイックなデジタルとアナログを自由に横断縦断する作品に興味を持ち今回彼に声をかけた。パブロ・マゾーロは2023年にリオデジャネイロの実験映画祭Dobraで彼のレトロスペクティブ上映が行われた際に私は映写技師として上映に参加し、その際に観た彼の作品群に圧倒され、また彼は昔バンドで演奏していたということもあり、何か面白いものが出来るだろうという期待を持って話を持ちかけてみた。エクアドルのクエンカ在住のフランシスコ・アルヴァレスはCámara Lúcidaという現代の南米および世界中のアヴァンギャルド映画作品をキュレーションした映画祭を運営している。私が2024年に初めて訪れたコロンビアでは先ほど触れたブエノスアイレスのビエンナーレで知り合ったジョン・メロ(当時はブエノスアイレスの大学院でエレクトロニックアーツの学位を取るために勉強していた)に招待されて私はパフォーマンスとワークショップを行った。このように、南米では国を超えてアーティストの行き来がとても盛んであり、域外に行く旅費が高いという経済的な面ももちろんあるのだが、ブエノスアイレスを訪れた時に特に人の行き来の流動性を強く感じた。
ところで、ラテンアメリカ以外ではあまり知られていないが、南米の各都市においてシネマテークの占める位置はとても重要である。ブラジルではサンパウロ、リオデジャネイロ、クリチバ、ポルトアレグレ、コロンビアではボゴタ、アルゼンチンにはブエノスアイレス、ウルグアイではモンテビデオにそれぞれシネマテークとして政府が管理し、無料もしくは良心的な値段でさまざまなキュレーションの映画を見ることができる。利益を求めないため、実験的なプログラミングに対してもオープンだ。上映と同時にフィルムの保存にも力を入れており、35ミリ、16ミリのフィルムの保存にかける費用は国家予算としても文化費の一部として組まれている。8ミリに特化した映画祭だけでも現在ブラジル国内で3つある。16ミリや35ミリと違って手軽なフォーマットが今でも映画を作る人、作らない人に関わらず受けるということだろう。
/デビッド・チュードアが昔どこかの学会で、「私の作る音楽は実験音楽ではない。実験ではなくて作る前に全て分かっているから」と言う趣旨の発言をしていた。果たしてこのコンピレーションに収録されたアーティストは「実験」をしているのだろうか。その実験が成功しているか否かはひとまず置いておくとして、映画を聞いてみるという行為は間違いなく実験である。つまり、この実験は「聴く音楽」ではなく「聴こえてくる映画」であると言え、その為、このコンピレーションはポルトガル語で「聞こえた映画」(*)と題されているのである。
2024年12月14日 Tetsuya Maruyama
*Ouvidoはポルトガル語で聴こえた、耳、または聴力という意味があり、Cinema Ouvidoは映画耳、聴こえた映画、映画聴力など様々な捉え方が可能である。